人事労務デューデリジェンスの進め方と買収判断の実務要点

人事労務デューデリジェンスでは、未払残業代や社会保険の加入状況だけでなく、キーパーソン、人事制度、組織文化まで調査します。主な調査項目、5段階の進め方、譲渡価格や契約条件への反映、PMIで人材流出を防ぐ実務を解説します。

目次

  1. 買収判断で人事労務デューデリジェンスが重要な理由
  2. 売り手が調査前に整える資料と説明体制
  3. 買い手が重点確認する労務リスク
  4. 買収後の収益を支える人材と組織の見方
  5. 人事労務デューデリジェンスの進め方
  6. 調査結果を譲渡価格と契約条件に反映する方法
  7. M&Aスキーム別に異なる雇用承継の注意点
  8. 調査結果を人事PMIで活用する実務
  9. まとめ

M&A人事デューデリジェンス実践手順とPMI成功の秘訣を解説

買収判断で人事労務デューデリジェンスが重要な理由

人事労務デューデリジェンスとは、買い手が対象会社の雇用管理、人事制度、人員構成、労使関係などを調べ、買収後に引き継ぐリスクと人材面の強みを確認する手続です。

M&A(合併・買収)では、決算書や契約書だけを確認しても、会社の実態を十分に把握できません。未払残業代、社会保険の加入漏れ、退職金の将来負担などが、決算書に明確に表れていないこともあります。

一方で、顧客との関係を支える営業責任者や、技術を一人で担う社員の価値も、決算書には載りません。人事労務デューデリジェンスは、こうした潜在的な負担と人材の価値を両面から確認する調査です。

人事面と労務面は分けて確認する

人事面では、人員構成、人件費、評価・報酬制度、キーパーソン、採用力、離職率、組織文化などを確認します。買収後の事業計画を実行できる組織か、重要人材が残る可能性があるかを判断するためです。

労務面では、勤怠管理、賃金計算、就業規則、雇用契約、36協定、社会保険・労働保険、労働組合、紛争履歴などを確認します。法令違反や将来の支払負担につながる問題を見つけることが主な目的です。

人事と労務は別の視点ですが、相互に関係しています。例えば、長時間労働が続いている会社では、未払残業代だけでなく、離職や採用難も問題になりやすいためです。

調査の目的は3つある

人事労務デューデリジェンスの主な目的は、次の3つです。

潜在的な負担を把握する

未払賃金、社会保険料、退職金、労働紛争など、買収後に支払や対応が必要となる可能性を確認します。

譲渡価格や契約条件へ反映する

重大な問題が判明した場合は、譲渡価格の調整、売り手による事前是正、表明保証や補償条項への反映を検討します。

買収後の統合計画を作る

給与体系や評価制度、企業文化の違いを整理し、PMI(M&A後の統合プロセス)の優先課題を明確にします。

売り手が調査前に整える資料と説明体制

買い手から資料の提出を求められてから探し始めると、回答が遅れたり、説明が食い違ったりします。売り手は、M&Aの検討初期から人事労務資料を整理しておくことが大切です。

資料が不足していること自体より、資料と実際の運用が合っていないことの方が問題になりやすいもの。規程を整えるだけでなく、現場でどのように運用されているかも確認します。

就業規則や雇用契約を整理する

主に確認されるのは、就業規則、賃金規程、退職金規程、育児・介護休業規程、雇用契約書、労働条件通知書、36協定、労働協約などです。

最新版がどれか分からない、変更後の規程を従業員へ周知していない、雇用形態ごとの規程が用意されていないといった状態は、追加調査の原因になります。

労働条件通知書についても、現行制度に対応した書式を使用し、実際の勤務条件と一致しているかを確認します。

勤怠、給与、社会保険の資料をそろえる

賃金台帳、勤怠データ、給与計算資料、残業申請、年次有給休暇の管理簿、社会保険・労働保険の届出資料などを準備します。

タイムカードの記録と実際の退社時刻が違う、固定残業代の対象時間が不明確、管理監督者として扱う社員の範囲が広すぎる場合は、未払賃金の発生が疑われます。

未払賃金の請求期間は、当分の間3年です。そのため、買い手は通常、複数年分の勤怠記録と給与計算を照合します。

組織と人事制度の資料を整理する

組織図、従業員名簿、人員構成、人件費の推移、評価制度、賞与制度、昇給実績、退職者一覧、休職者の状況、退職金・企業年金の資料なども調査対象です。

特に、年齢、職種、雇用形態、役職、所属部門別に人員を整理すると、買い手が対象会社の組織を理解しやすくなります。

個人情報の開示範囲を管理する

従業員名簿や給与資料には、多くの個人情報が含まれます。健康情報や懲戒履歴など、特に慎重な取扱いが必要な情報もあります。

初期段階では氏名を伏せる、閲覧者を限定する、必要な項目だけを開示するなど、調査目的に応じて情報を管理します。

説明担当者と回答方針を決める

資料だけでは分からない運用実態は、経営者や人事担当者へのインタビューで確認されます。

経営者、人事、経理、現場責任者の説明が異なると、提出資料の信頼性まで疑われかねません。誰がどの分野を説明するのかを決め、過去の労働トラブルや行政指導も含めて、事実を一貫して説明できる体制を整えます。

買い手が重点確認する労務リスク

「就業規則を作成しているから問題ない」とは限りません。人事労務デューデリジェンスでは、書面よりも実際の運用が重視されます。

規程、勤怠記録、給与計算、現場担当者の説明が一致しているか。ここが重要です。

勤怠管理と未払賃金

勤怠管理では、打刻漏れ、始業前作業、持ち帰り残業、固定残業代、変形労働時間制、裁量労働制、管理監督者の扱いなどを確認します。

36協定が届出されていても、実際の時間外労働が協定の範囲を超えていないか、労働者代表が適切に選ばれているかまで調べる必要があります。

未払賃金の可能性がある場合は、対象者、対象期間、割増率などを確認し、支払額を試算します。あわせて、長時間労働による健康問題や離職リスクも評価します。

就業規則と雇用契約の運用

雇用契約書や労働条件通知書の未交付、契約更新の管理不足、有期雇用者の無期転換への対応などを確認します。

規程と現場の運用が一致しているか

規程が法令に対応していても、現場で別の運用が定着していることがあります。

例えば、就業規則には残業申請が必要と書かれていても、実際には申請せずに残業しているケースです。この場合、規程の有無だけでなく、会社が実際の労働時間を把握していたかが問題になります。

有期雇用者やパートの管理が適切か

契約更新の回数や通算期間、待遇差の理由、雇用契約書の内容を確認します。無期転換申込権が発生している従業員への対応も調査項目です。

社会保険と労働保険の加入状況

社会保険や労働保険の加入対象者に漏れがないか、算定や届出が適切かを確認します。

加入漏れが見つかると、過去の保険料負担が発生する可能性があります。役員、パート、短時間労働者など、判断を誤りやすい区分は特に注意が必要です。

ハラスメントや労働紛争

ハラスメント相談、労働審判、訴訟、労災、労働基準監督署からの是正勧告や指導の履歴を確認します。

問題が解決済みでも、相談窓口や再発防止策が機能していなければ、買収後に同じ問題が起こる可能性があります。

労働組合と労使関係

労働組合の有無、団体交渉の状況、労働協約、過去の争議などを確認します。

労働組合があること自体が問題なのではありません。買収後の制度変更や人員配置について、どのような説明や協議が必要になるかを把握することが目的です。

買収後の収益を支える人材と組織の見方

労務違反がない会社でも、買収後に重要社員が退職すれば、期待した利益を生み出せないことがあります。

人事面の調査では、問題がないかを確認するだけでなく、事業計画を支える人材と組織の力を見極めます。

人員構成と人件費の持続性

部門別の人数、年齢構成、雇用形態、採用数、離職率、休職者、人件費の推移などを分析します。

売上に対する人件費の割合だけで判断するのではなく、事業計画に必要な人数を確保できるか、将来の採用費や教育費が増えないかも確認します。

高齢化が進んでいる、特定部門だけ離職率が高い、採用計画が達成できていない場合は、買収後の事業計画を見直す必要があります。

キーパーソンと業務の属人化

経営者、営業責任者、技術者、許認可に関わる有資格者など、事業継続に欠かせない人材を特定します。

特定の社員しか顧客情報を把握していない、製造方法が文書化されていないといった状態は、M&A実務では珍しくありません。

その社員が退職した場合に、顧客、売上、技術、許認可へどの程度影響するかを整理し、引継ぎ、権限委譲、処遇の見直しを検討します。

評価制度と報酬制度

基本給、賞与、昇給、評価基準、昇進の決め方、福利厚生、退職金制度を確認します。

買い手企業と対象会社で制度に大きな差がある場合、統合後に従業員の不満が生じる可能性があります。ただし、買収直後にすべての制度を統一することが適切とは限りません。

制度差による費用と従業員への影響を整理し、段階的な統合を検討します。

組織文化と意思決定の違い

企業理念、上下関係、現場の裁量、意思決定の速さ、情報共有の方法などを確認します。

買い手が数値や手続を重視する一方、対象会社が経営者の判断や人間関係を重視している場合、急な制度変更は反発を招きます。

組織文化は良し悪しで評価するのではなく、両社の違いが買収後の運営にどのような影響を与えるかを見ます。

給与・勤怠システムの統合難易度

給与計算や勤怠管理のシステムが異なる場合は、データ移行、二重入力、改修費用などが発生します。

従業員データの項目や計算方法が違うと、システムを切り替えるだけでは統合できません。給与計算の正確性を優先し、段階的な移行を検討します。

人事労務デューデリジェンスの進め方

調査期間や調査範囲は、対象会社の規模、従業員数、業種、M&Aスキーム、買い手の懸念によって異なります。

すべてを同じ細かさで調べるのではなく、買収目的とリスクの大きさに応じて優先順位を付けることが重要です。

1.調査方針と専門家チームを決める

買い手は、調査対象となる期間、拠点、子会社、従業員区分、重点項目を決めます。

労務管理は社会保険労務士、労働紛争や契約は弁護士、人事制度や組織は人事コンサルタントが担当するのが一般的です。必要に応じて、公認会計士や税理士が人件費、退職給付、税務への影響を確認します。

2.必要資料を開示する

売り手は、組織図、従業員名簿、就業規則、雇用契約書、賃金台帳、勤怠データ、社会保険資料などを開示します。

買い手は、不足資料や内容が一致しない箇所を整理し、追加質問を行います。個人情報を含む資料は、調査の進み具合に応じて開示範囲を調整します。

3.資料分析とインタビューを行う

勤怠データと給与計算を照合し、未払賃金の可能性を試算します。人件費、離職率、年齢構成、退職金負担なども分析します。

資料だけでは判断できない点について、経営者や人事責任者へインタビューを行い、実際の運用を確認します。

4.リスクを金額面と非金額面に分ける

未払賃金や社会保険料などは、可能な範囲で金額に換算します。

一方、キーパーソンの退職、採用難、組織文化の衝突、ハラスメントの再発などは、金額だけでは評価できません。発生可能性、事業への影響、改善に必要な期間を整理して重要度を判断します。

5.買収判断とPMI計画へつなげる

調査報告書は、問題を並べるだけの資料ではありません。

買収を続けるか、譲渡価格を調整するか、売り手に是正を求めるか、契約条件へ反映するかを判断します。あわせて、買収後に取り組む人事制度、重要人材、労務改善の優先順位を決めます。

調査結果を譲渡価格と契約条件に反映する方法

問題が見つかっても、直ちにM&Aを中止するとは限りません。誰が、いつ、どの費用で問題を解決するかを整理することが重要です。

人事労務デューデリジェンスで判明した事項は、譲渡価格、表明保証、補償、クロージング前後の義務、PMI計画などへ反映します。

譲渡価格を調整する

未払賃金や退職金の将来負担など、買収後に支出が見込まれる場合は、譲渡価格の調整を検討します。

ただし、推計額をそのまま価格から差し引くとは限りません。発生する可能性、売り手による事前精算、税務上の影響などを踏まえて交渉します。

売り手による事前是正を求める

就業規則の改定、未払賃金の精算、社会保険への加入などを、クロージング前に実施するよう求めることがあります。

短期間で解決できない問題は、買収後の期限、担当者、費用負担を明確にします。

表明保証と補償条項を定める

売り手が、労働関係法令の遵守、未払賃金、労働紛争、社会保険などについて、一定の事実を表明することがあります。

表明した内容が事実と異なる場合に備え、補償の範囲や期間も契約で定めます。

売り手が問題を隠すと、金額以上に信頼を失います。把握している問題は早めに開示し、原因と改善方法をセットで説明することが大切です。

M&Aスキーム別に異なる雇用承継の注意点

雇用契約の扱いは、株式譲渡、事業譲渡、会社分割、合併で異なります。

M&Aスキームを決めてから従業員対応を考えるのでは遅いこともあります。候補となるスキームごとに、雇用への影響を比較します。

株式譲渡では雇用主が変わらない

株式譲渡では、対象会社の株主が変わりますが、会社自体は存続します。そのため、通常、対象会社と従業員との雇用契約はそのまま続きます。

ただし、経営方針、役員、評価制度などが変われば、従業員は不安を感じます。雇用契約が継続するから説明が不要というわけではありません。

事業譲渡では従業員ごとの同意が必要になる

事業譲渡では、対象事業の資産や契約を個別に買い手へ移します。労働契約を買い手へ移す場合は、原則として対象従業員本人の同意が必要です。

転籍後の給与、勤務地、仕事内容、勤続年数、退職金、有給休暇などを説明し、同意を得ます。重要社員が転籍に同意しなければ、買収目的を達成できない可能性もあります。

会社分割では法律に基づく手続がある

会社分割では、分割契約などの内容に従って権利義務が承継されます。従業員については、労働契約承継法に基づく通知、協議、異議申出などの手続が関係します。

対象事業に主として従事しているかなどによって扱いが変わるため、早い段階で専門家へ確認します。

合併では労働契約が包括的に承継される

合併では、一般に消滅会社の権利義務が存続会社や新設会社へまとめて承継されます。労働契約も通常は承継対象です。

ただし、合併後に人事制度や就業規則を変更する場合は、従業員への説明や法的な手続を慎重に進める必要があります。

調査結果を人事PMIで活用する実務

人事労務デューデリジェンスの価値は、報告書を受け取った時点では確定しません。

調査で見つかった課題を買収後の行動へつなげて初めて、人材流出の防止やシナジーの実現に役立ちます。

統合初日に伝える内容を決める

従業員が最初に知りたいのは、誰が上司になるのか、給与や勤務地は変わるのか、自分の仕事は続くのかという点です。

統合初日に伝える内容、経営者からのメッセージ、問い合わせ窓口を事前に準備します。決まっていない事項については、いつまでに決めるのかを伝えます。

キーパーソンの離職を防ぐ

重要人材には、買収後の役割、権限、処遇、将来の成長機会を具体的に示します。

特別賞与などの金銭的な対策だけで十分とは限りません。経営者との信頼関係、仕事の裁量、部下との関係、会社への思いなど、本人が働き続ける理由を把握することが重要です。

人事制度は段階的に統合する

給与、評価、退職金、福利厚生、勤怠システムを一度に統一すると、従業員や管理部門の負担が大きくなります。

法令違反の是正や給与計算の安定を優先し、制度差は段階的に調整します。買い手の制度をそのまま押し付けるのではなく、対象会社の良い仕組みを残す視点も必要です。

数値を確認しながら計画を修正する

離職率、欠勤、残業時間、重要人材の定着状況、従業員からの問い合わせ件数などを継続的に確認します。

想定より離職が増えた、残業時間が改善しないといった場合は、原因を調べてPMI計画を修正します。買収前の調査と買収後の管理を切り離さないことが重要です。


まとめ

人事労務デューデリジェンスは、未払賃金などの負担を確認するだけでなく、重要人材、組織文化、人事制度を把握し、買収後の成長可能性を判断する手続です。売り手は資料と説明体制を早めに整え、買い手は調査結果を譲渡価格、契約条件、PMIへ一貫して反映することが重要です。

著者:竹川 満 マネージャー / M&Aアドバイザー 

野村證券にて、法人・個人富裕層の資産運用を支援した後、本社企画部署では全支店の営業支援・全国の顧客の運用支援、新商品の導入等に携わる。みつきグループでは、教育機関・介護施設等へのM&Aを含む経営支援に従事

編集:M&A事業承継アドバイザーズ 編集部|運営:みつき税理士法人