人手不足M&Aで事業承継を進める判断基準
人手不足を背景にM&Aを検討する中小企業向けに、売り手・買い手双方の判断軸、業界別の動向、労務リスク、譲渡条件、PMIで従業員流出を防ぐ実務ポイントを解説します。
目次

▶目次ページ:事業承継とは(事業承継の問題・課題)
「求人を出しても応募が来ない」「採用できても定着しない」。この悩みは、もはや一部の業界だけの問題ではありません。人手不足は、売上拡大の足かせになるだけでなく、後継者問題や廃業判断にも直結します。
日本商工会議所の2024年調査では、中小企業の63.0%が人手不足と回答し、そのうち65.5%が事業運営への影響を「非常に深刻」または「深刻」と答えています。人手不足は採用担当者だけの課題ではなく、経営者が事業を残すか、縮小するか、第三者に承継するかを考える段階に入っています。
M&A(合併・買収)の市場も、この流れと無関係ではありません。レコフデータによると、2025年の日本企業のM&A件数は5,115件で、件数・金額ともに過去最高となりました。人手不足、後継者不在、成長投資、業界再編が重なり、中小企業でもM&Aが現実的な経営判断になりつつあります。
以前は、人手不足の対策といえば求人広告、紹介会社、賃上げ、教育制度の見直しが中心でした。もちろん、これらは今でも重要です。ただ、必要な資格者、熟練工、現場責任者を1人ずつ採用するには時間がかかります。
そこで、一定の人材、顧客、拠点、技術を持つ会社をM&Aで譲り受ける発想が広がっています。買い手企業にとっては、採用活動では確保しにくい即戦力を組織ごと迎え入れられる点が魅力です。一方、売り手企業にとっては、自社単独では採用力や資金力に限界がある場合でも、買い手グループの支援を受けながら事業を続けられる可能性があります。
短期の人員補充ではありません。事業基盤の引継ぎです。
黒字なのに人が足りず、受注を断る。現場を回すために経営者自身が長時間働き続ける。こういうケースは珍しくありません。帝国データバンクによると、2025年の人手不足倒産は427件となり、3年連続で過去最多を更新しました。業種別では建設業や物流業が目立ち、従業員10人未満の小規模企業でも多く発生しています。
ここで大切なのは、「倒産してから」では選択肢が大きく減ることです。従業員が残っている、顧客との関係が続いている、利益が出ている、技術や許認可が残っている段階であれば、M&Aの可能性は広がります。
人手不足と後継者不在は、別々の問題に見えて、実務では重なりやすい課題です。経営者が高齢になり、幹部や熟練社員も高齢化する一方で、若手を採用できない。この状態が続くと、事業承継の計画そのものが止まりやすくなります。
親族内承継や従業員承継を進めるには、後継者候補だけでなく、その後継者を支える管理職や現場人材も必要です。人材層が薄い会社では、承継後に経営が不安定になることもあります。第三者承継としてのM&Aは、後継者と人材基盤を同時に見直す選択肢になります。
人手不足だからといって、すぐに会社売却を決める必要はありません。まずは採用、教育、業務効率化、外注、待遇改善を検討すべきです。それでもなお、事業継続に不安が残る場合にM&Aが現実的な選択肢になります。
M&Aを検討すべき場面は、主に3つあります。1つ目は、受注や顧客はあるのに人が足りず、売上を伸ばせない状態です。2つ目は、経営者や幹部への負担が限界に近づいている状態。3つ目は、後継者不在と採用難が重なり、数年後の会社の姿を描けない状態です。
売り手企業には、地域で長く働いている従業員、特定の資格を持つ人材、顧客から信頼されている現場責任者がいることがあります。ところが、会社の知名度や賃金水準、採用広報の力で大手企業に勝てず、若手が入ってこない。
この場合、M&Aにより買い手企業の採用力、教育制度、資金力を活用できる可能性があります。従業員にとっても、雇用の継続だけでなく、処遇改善、研修機会、キャリアの広がりにつながることがあります。
ただし、売り手経営者が「買い手が何とかしてくれる」と考えすぎるのは危険です。人材の年齢構成、退職予定者、資格保有者、キーマンとの関係、未払い残業代の有無などを早めに整理しておく必要があります。
人手不足が続くと、「このまま続けても迷惑をかけるだけではないか」と考える経営者もいます。実際、体力面や精神面の負担から、廃業を検討する方も少なくありません。
しかし、廃業を選ぶと、従業員の雇用、取引先との関係、地域で担ってきた役割、長年蓄積した技術やノウハウが失われる可能性があります。M&Aで第三者に承継できれば、会社名、事業、雇用、取引関係を一定程度残せる余地があります。
もちろん、すべての会社が希望条件で売却できるわけではありません。それでも、廃業準備に入る前にM&Aの可能性を確認する価値はあります。
人手不足を背景にしたM&Aでは、譲渡価格だけでなく、従業員の雇用条件、勤務地、社名の扱い、取引先への説明、経営者の引継ぎ期間も重要です。特に中小企業では、社長の人柄や現場との距離感が会社の信用を支えていることがあります。
価格が高くても、従業員が一斉に辞めてしまう条件では意味がありません。反対に、価格だけ見れば少し低くても、雇用維持や事業継続の条件が整う相手の方が、経営者の希望に合うこともあります。
買い手企業にとって、人手不足M&Aは「人を買う」取引ではありません。人材が働き続けられる事業基盤を譲り受ける取引です。この違いを理解していないと、買収後に期待した効果が出にくくなります。
買い手が見るべき点は、従業員数だけではありません。重要なのは、どの職種が不足しているのか、どの資格や経験が必要なのか、その人材が買収後も残る可能性が高いのか、という点です。
建設、運輸、介護、IT、飲食、宿泊などでは、採用してから戦力化するまでに時間がかかります。資格取得、現場経験、顧客対応、社内ルールの理解が必要だからです。
M&Aで同業や隣接業種の会社を譲り受ければ、従業員、営業拠点、顧客基盤、許認可、協力会社との関係をまとめて引き継げる場合があります。特に、受注はあるのに現場が足りない会社にとっては、成長機会を逃さないための手段になり得ます。
買い手が注意すべきなのは、従業員数だけを見て買収を判断しないことです。現場を回している工場長、施工管理者、配送責任者、店舗責任者、システム責任者などが退職すると、買収の前提が崩れることがあります。
人手不足M&Aでは、キーマンの役割、報酬、年齢、退職意向、経営者との関係を事前に把握することが大切です。必要に応じて、譲渡契約とは別に、一定期間の勤務継続や引継ぎ協力について合意しておくことも検討します。
M&Aは、買収した瞬間に人手不足が解決する魔法ではありません。買収後に若手を採用し、既存社員と新しい社員を育て、離職を防ぐ仕組みが必要です。
買い手企業の賃金水準、評価制度、教育制度、労務管理、現場とのコミュニケーション力が弱いままだと、譲り受けた会社でも同じ人手不足が再発します。買い手は、自社の採用力と定着力も確認すべきです。
人手不足は全業種共通の課題ですが、M&Aにつながる理由は業界ごとに異なります。採用難が目立つ業界ほど、単独での経営努力だけでは限界が見えやすくなります。
厚生労働省は、建設業、自動車運転者、医師などについて、時間外労働の上限規制が2024年4月から適用されたと説明しています。いわゆる「2024年問題」は、建設や運輸の人手不足をより見えやすくした要因の1つです。
建設業では、職人不足だけでなく、施工管理技士などの資格者不足が大きな課題になります。受注できる案件があっても、現場を管理できる人材がいなければ売上につながりません。
そのため、買い手は資格者、現場責任者、協力会社ネットワークを重視します。売り手は、自社の工事実績だけでなく、誰が現場を動かしているのか、資格者が何人いるのか、退職リスクが高い人材はいないかを整理しておく必要があります。
運輸業では、ドライバー不足、高齢化、労働時間規制、燃料費、人件費の上昇が重なります。配送網を維持するには、人材だけでなく、営業所、車両、荷主との契約、運行管理体制が必要です。
M&Aでは、買い手が新しい地域に進出する目的で、地元荷主との関係を持つ運送会社を譲り受けることがあります。売り手にとっては、大手や中堅グループに入ることで、採用広報、教育、安全管理、車両投資の面で支援を受けられる可能性があります。
サービス業、飲食業、人材派遣業では、採用してもすぐ辞めてしまうことが大きな課題です。店舗や現場の責任者に負担が集中し、離職がさらに離職を呼ぶこともあります。
この分野のM&Aでは、店舗数や登録スタッフ数だけでなく、店長層、教育体制、シフト管理、労務管理、クレーム対応の仕組みが重視されます。買い手は、買収後に現場負担が増えすぎない統合計画を立てる必要があります。
IT業界では、エンジニアの人数だけでなく、対応できる言語、開発領域、顧客との関係、プロジェクト管理力が重要です。医療・介護では、資格者の確保、利用者との信頼関係、行政対応、シフト管理が見られます。
どの業界でも共通するのは、人材の数だけでは企業価値を測れないことです。残ってほしい人材が残る仕組みまで含めて、M&Aの条件を考える必要があります。
人手不足M&Aで見落としやすいのが、労務リスクです。売上や利益が出ていても、未払い残業代、36協定の不備、社会保険の加入漏れ、名ばかり管理職、休日管理の不備などがあると、買い手は慎重になります。
労務リスクは、買収後に表面化すると大きな負担になります。帳簿に載っていない債務という意味で、簿外債務に近い問題になることもあります。M&A実務では、ここで判断が止まることがあります。
労働基準法では、原則として労働時間は1日8時間、1週40時間以内です。法定労働時間を超える残業や休日労働をさせるには、36協定の締結と所轄労働基準監督署長への届出が必要です。
中小企業では、現場を回すために残業が常態化しているのに、勤怠記録や残業代計算が十分でないことがあります。買い手は、過去の勤怠データ、給与台帳、雇用契約書、就業規則、36協定、変形労働時間制の運用などを確認します。
未払い残業代の可能性がある場合、買い手は譲渡価格の減額、表明保証、補償条項、クロージング前の是正を求めることがあります。表明保証とは、契約時に一定の事実が正しいと売り手が約束する条項です。
売り手は、M&Aを検討し始めた段階で労務管理を整えることが重要です。問題を隠すより、早めに確認して、是正できるものから対応した方が交渉しやすくなります。
株式譲渡では、会社そのものの株主が変わるだけなので、原則として雇用契約は会社に残ります。一方、事業譲渡では、事業の一部または全部を別会社に移すため、従業員の転籍同意や個別対応が必要になることがあります。
人手不足を理由にM&Aを行う場合、従業員の引継ぎが目的の中心になります。そのため、どのスキームが適しているかを、税務、会計、法務、労務の観点から整理する必要があります。
建設業、運輸業、医療・介護、派遣業などでは、許認可や資格者要件が事業継続の前提になります。M&A後に資格者が退職すると、許認可や営業体制に影響することがあります。
買い手は、許認可の承継可否、管理責任者の配置、行政手続、契約上の地位の移転を確認します。売り手も、自社の事業がどの人材に支えられているかを把握しておくべきです。
人手不足M&Aの成否は、契約締結後に決まる面があります。買収できたとしても、従業員が辞めてしまえば目的を達成できません。PMI(M&A後の統合プロセス)は、人手不足M&Aで最も重要な工程の1つです。
特に中小企業では、従業員が「会社を勝手に売られた」と感じることがあります。説明のタイミングや言葉を誤ると、不安が広がります。ここは経営者の最後の大仕事ともいえます。
M&Aの検討段階では、情報管理が必要です。早い段階で従業員に広く知らせると、噂が広がり、取引先や金融機関にも影響することがあります。一方、契約後に突然知らせると、従業員が不信感を持ちます。
実務では、最終契約の締結前後に、まず幹部やキーマンへ丁寧に説明し、その後に全従業員へ説明する流れが多く見られます。説明では、譲渡理由、雇用継続、処遇、社名、勤務地、経営者の引継ぎ期間を明確にすることが大切です。
現場責任者や長年会社を支えてきた従業員は、会社の空気を左右します。全体説明だけでは不十分なことがあります。買い手企業の経営者や責任者が直接会い、今後の役割や期待を伝えることが重要です。
「あなたに残ってほしい」という言葉が、退職防止につながることもあります。意外と多い落とし穴です。
買い手企業が大きい場合、評価制度や給与体系を早く統一したくなることがあります。しかし、買収直後に制度を急に変えると、従業員は不安を感じます。特に、手当、賞与、勤務時間、休日、役職名が変わる場合は注意が必要です。
制度統合は、現状把握、差額の確認、移行期間、説明資料、相談窓口を用意して進めます。買い手側の制度が優れている場合でも、押し付けに見えると反発を招きます。
財務デューデリジェンスでは数字を確認できますが、社風の違いは数字に出にくいものです。朝礼の有無、報告の頻度、上司との距離感、顧客対応の考え方、現場の裁量。この小さな違いが、統合後の不満につながります。
PMIでは、相手のやり方を一度受け止める姿勢が必要です。買い手の管理手法をすぐに入れるのではなく、残すべき文化と変えるべき仕組みを分けて考えることが大切です。
M&Aは、思い立った翌月に成立するものではありません。人手不足が深刻になってから慌てて動くと、条件面で不利になりやすくなります。準備は早いほど選択肢が広がります。
中小企業庁の中小M&Aガイドラインは、M&Aの手続や利用者の役割、仲介者・FAの説明事項、最終契約に関するリスクなどを示しています。2024年8月には第3版が策定され、手数料や利益相反、不適切な譲り受け側への対応なども追記されています。
売り手が最初に行うべきことは、会社の人材情報を整理することです。従業員数、年齢構成、勤続年数、資格、役割、給与水準、退職予定、キーマン、採用状況、離職率を確認します。
次に、直近3期分の決算書、月次試算表、借入金、リース、未払い費用、主要取引先、契約書、許認可を整理します。人手不足M&Aでは、人材だけでなく、その人材が生み出す収益力や顧客関係も見られるためです。
譲渡価格、従業員の雇用維持、社名の継続、取引先への対応、経営者の退任時期、個人保証の解除、引継ぎ期間。これらの優先順位を決めておくと、買い手候補を選びやすくなります。
すべてを満たす相手は多くありません。だからこそ、譲れない条件と、交渉可能な条件を分けることが重要です。
買い手は、「人が足りないから会社を買う」という大まかな目的だけでは不十分です。どの職種が何人必要なのか、どの地域で必要なのか、どの資格が必要なのか、既存組織との役割分担はどうするのかを整理します。
目的が曖昧なままM&Aを進めると、候補会社の選定がぶれます。結果として、人数は増えたが欲しかった人材ではなかった、という事態になりかねません。
人手不足M&Aでは、企業価値評価や契約交渉だけでなく、労務デューデリジェンス、従業員説明、PMIの設計が重要です。M&A仲介会社、FA、金融機関、税理士、公認会計士、弁護士、社会保険労務士など、必要な専門家の役割を分けて考えます。
特に、未払い残業代や雇用契約の確認は、税務や会計だけでは完結しません。労務に詳しい専門家と連携できる体制があるかを確認すると安心です。
マッチング後より準備段階が大切
候補企業が見つかってから慌てて資料を集めると、交渉のスピードが落ちます。人手不足が深刻な会社ほど、経営者が日常業務に追われ、資料整理が後回しになりがちです。
早めに準備しておけば、買い手からの質問に落ち着いて対応できます。M&Aは、準備の差が条件の差に出やすい取引です。
人手不足M&Aは、採用難を補うだけでなく、後継者不在、従業員の雇用維持、技術承継、事業継続を同時に考える選択肢です。ただし、労務リスクや従業員流出を見落とすと、成約後に目的を達成できません。売り手は人材情報と希望条件を整理し、買い手は必要な人材像とPMI方針を明確にしたうえで、早めに検討を始めることが大切です。
著者:竹川 満 マネージャー / M&Aアドバイザー
野村證券にて、法人・個人富裕層の資産運用を支援した後、本社企画部署では全支店の営業支援・全国の顧客の運用支援、新商品の導入等に携わる。みつきグループでは、教育機関・介護施設等へのM&Aを含む経営支援に従事
編集:M&A事業承継アドバイザーズ 編集部|運営:みつき税理士法人