役員退職金をM&Aで活用すると、株式譲渡対価との組合せでオーナーの手取りや買い手の買収資金に影響します。退職所得の税金、功績倍率による計算、損金算入、株主総会決議、実質退任や資金繰りなど、税務否認を避ける実務ポイントを会社売却の場面に沿って平易に解説します。
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▶目次ページ:株式譲渡(株式譲渡の税金)
会社を売却するとき、株式の値段だけを見て判断すると、最終的な手取りを読み違えることがあります。特にオーナー経営者が退任するM&A(合併・買収)では、役員退職金をどう扱うかが大きな分かれ目です。
役員退職金とは、取締役や監査役などの役員が退任する際、会社が役員としての功労に対して支給する退職金です。役員退職慰労金と呼ばれることもあります。従業員の退職金とは異なり、定款に定めがない場合は、原則として株主総会で支給内容を決議します。中小企業では定款に細かく定めていないことが多いため、臨時株主総会の議事録を残す対応が実務上重要です。
中小企業では、代表取締役が主要株主を兼ねているケースが多くあります。この場合、会社売却では「株主として株式譲渡対価を受け取る立場」と「役員として退任する立場」が同時に生じます。
そこで、譲渡対価の一部を役員退職金として会社から受け取り、残りを株式譲渡対価として受け取る設計が検討されます。退職金は退職所得として税務上の優遇を受けやすく、一定の範囲では株式譲渡だけで受け取るより手取りが増える可能性があります。
ただし、退職金を増やせば必ず有利になるわけではありません。金額が過大であれば法人側で損金に認められない可能性があり、退任後も実質的に経営を続けていれば、退職の事実そのものを疑われます。意外と多い落とし穴です。
役員退職金は、買い手企業から直接支払われるものではなく、原則として売却対象となる会社の現預金から支給されます。そのため、退職金を支給すると会社の現預金が減り、株式譲渡対価もその分だけ下がる設計になります。
一見すると、株価が下がるため売り手に不利に見えるかもしれません。しかし、売り手が受け取る総額は「株式譲渡対価+役員退職金」で考える必要があります。さらに税引後の手取りまで見ると、役員退職金を組み合わせたほうが有利になることがあります。
買い手側にも意味があります。会社に残っていた現預金を退職金原資に使うことで、買い手が用意する純粋な株式買収資金を抑えやすくなります。また、適正な役員退職金であれば対象会社で損金算入でき、法人税負担の軽減につながる場合があります。
M&A実務では、「いくらで売れるか」だけで話が進むと、あとで税金と資金繰りの調整に時間がかかります。役員退職金を使う場合は、譲渡価格、支給時期、会社の現預金、買い手の資金計画を同時に見ます。
株式譲渡のみで会社を売却する場合、個人株主の株式譲渡益には、所得税、復興特別所得税、住民税を合わせて通常20.315%の税率がかかります。これは金額の大小にかかわらず基本的に一定です。
一方、役員退職金は退職所得として扱われます。退職所得には退職所得控除があり、控除後の金額を原則として2分の1にしてから税額を計算します。そのため、長く経営に携わってきたオーナーほど、退職金として受け取る部分の税負担が軽くなることがあります。
大切なのは、額面ではなく税引後の総手取りです。たとえば、株式譲渡対価が1億円から8,000万円に下がっても、別途2,000万円の役員退職金を受け取るなら、額面合計は変わりません。そこから税金を引いた後に、どちらが有利かを比較します。
買い手にとっては、対象会社の現預金が減るため、株式譲渡対価は下がります。買収時に外部借入や自己資金をどれだけ用意するかに影響するため、資金計画上の意味があります。
また、退職金が対象会社の損金になると、対象会社の課税所得を減らせます。退職金の支給により欠損金が生じる場合は、一定の要件のもとで翌期以降の課税所得と相殺できることもあります。ただし、税効果を売り手と買い手のどちらがどこまで享受するかは、価格交渉で調整される論点です。
役員退職金をM&Aで使う場合、最終契約書やその前の基本合意書で、退職金の支給時期、支給額、株式譲渡対価への反映方法を整理します。ここが曖昧だと、クロージング直前に「想定より会社の現預金が少ない」「運転資金が足りない」といった問題が起きます。
実務では、正常運転資金、借入金、役員退職金、未払税金を踏まえて譲渡価格を調整します。売り手は手取りを増やすことだけでなく、買い手が引き継いだ後も事業を回せる資金を残す視点が必要です。
退職金スキームは節税だけを目的に見えることがあります。しかし本来は、長年経営を担った役員の退任対価を適正に支給し、その結果として退職所得課税を受ける設計です。順番を間違えると、税務調査で説明が難しくなります。
退職所得は、原則として次の流れで計算します。
退職所得の金額=(退職金収入-退職所得控除額)×1/2
退職所得控除額は、勤続年数が20年以下の場合は40万円×勤続年数で、80万円に満たない場合は80万円です。20年を超える場合は、800万円+70万円×20年を超える年数で計算します。たとえば勤続30年なら、800万円+70万円×10年で1,500万円です。
なお、役員等としての勤続年数が5年以下の退職金は、特定役員退職手当等として2分の1計算が使えません。短期間だけ役員に就任した後に多額の退職金を受け取るような設計は、税務上のメリットが小さくなります。
株式譲渡益は、譲渡価額から取得費や譲渡費用を差し引いて計算します。創業者の場合、取得費が小さく、譲渡価額の大部分が譲渡益になることも珍しくありません。その場合、20.315%の税率でも税額は大きくなります。
退職金を組み合わせると、株式譲渡対価が下がるため、株式譲渡益も下がります。一方で退職所得が発生します。どちらが有利かは、在任年数、役員報酬、取得費、住民税、復興特別所得税、今後の所得見込みによって変わります。
退職所得は優遇されていますが、金額が大きくなるほど所得税の累進税率も上がります。さらに、法人側で不相当に高額な役員退職金と判断されれば、その高額部分は損金にできません。会社側で追徴課税が生じれば、買い手との関係にも影響します。
退職金は「多いほどよい」ではありません。株式譲渡対価、退職金、法人税、個人税、手続コストを合わせて試算し、税引後の総額が最も合理的になる水準を探る必要があります。
役員退職金に法律上の一律上限はありません。だからこそ、税務上は「なぜその金額なのか」を説明できる根拠が必要になります。ここで使われる代表的な方法が功績倍率法です。
実務では、次の計算式がよく使われます。
役員退職金=最終報酬月額×役員在任年数×功績倍率
最終報酬月額は退任直前の月額役員報酬、役員在任年数は役員として在任した期間、功績倍率は役職や会社への貢献度を反映する倍率です。代表取締役では3.0倍程度がひとつの目安とされ、専務は2.2倍から2.5倍程度、常務は2.0倍から2.2倍程度が参考にされることがあります。
たとえば、最終報酬月額100万円、役員在任年数20年、功績倍率3.0倍であれば、100万円×20年×3.0倍で6,000万円が目安です。ただし、これはあくまで計算上の目安です。同業種、同規模、退職理由、会社の業績、過去の支給実績なども見られます。
M&A直前に役員報酬を急に上げ、その高い報酬を基準に退職金を計算すると、恣意的な操作と見られやすくなります。毎月の役員報酬は、会社の利益や職務内容に応じて継続的に決められていることが大切です。
功労加算を行う場合も同じです。創業者として特別な貢献がある場合に一定の加算を行うことはありますが、加算の理由、割合、社内規程との整合性を残しておく必要があります。
役員退職金を支給するなら、役員退職慰労金規程を事前に整備しておくことが望ましいです。規程には、対象者、計算方法、功績倍率、功労加算、減額事由、支給時期などを定めます。
M&A交渉が進んでから急に規程を作ると、税務署から「今回の節税のためだけに作ったのではないか」と見られるおそれがあります。すでに規程がない場合でも、同業種同規模の事例、過去の役員報酬、会社への貢献内容を整理し、支給根拠を文書で残すことが重要です。
役員退職金の原資として、会社契約の生命保険を使っている会社もあります。保険金や解約返戻金により退職金原資を準備できる点はメリットです。
ただし、保険は資金繰りに影響します。保険料の負担が重くなり途中解約した場合、想定より解約返戻金が少ないことがあります。また、保険金を受け取った時期、解約時期、保険料の税務処理によって法人税への影響も変わります。退職金の金額は、保険で用意できる金額ではなく、役員としての功績と税務上の適正額から考えるべきです。
退職金スキームで最も怖いのは、支給後に「退職金ではない」と見られることです。形式的な議事録だけでは足りません。実態が伴っているかを確認されます。
役員退職金は、定款に支給額や算定方法の定めがない場合、株主総会で決議します。中小企業では、株主総会で総額や算定方法を決め、具体的な金額を取締役会に一任する形もあります。
M&Aでは、最終契約、クロージング、役員退任、退職金支給の順番を整理しておく必要があります。支給決議の議事録、退任届、登記変更、源泉徴収関係の資料、支払記録は、後日の説明資料になります。口頭合意で済ませないことです。
役員退職金は、役員としての地位や職務から退くことが前提です。退任後も会長や顧問として会社に残ること自体が直ちに否認されるわけではありませんが、実質的に経営判断を続けていると問題になります。
たとえば、金融機関との融資交渉、採用決定、重要取引の承認、資金決済、取締役会での実質的な意思決定に関与している場合は注意が必要です。名刺や社内での呼ばれ方、役員報酬に近い顧問料、従業員への指示系統も見られます。
M&A後の引継ぎ期間は必要です。だからこそ、引継ぎ業務の範囲、期間、顧問料、決裁権限の有無を明確にします。M&A実務では、ここで判断が止まることがあります。
買い手は、役員退職金が税務上否認された場合のリスクを気にします。売り手は、退職金が予定どおり支給されないリスクを気にします。そのため、最終契約では、退職金の支給条件、支給日、支給原資、必要な会社手続、税務否認時の負担関係を確認します。
対象会社の会計処理も重要です。退職金の損金算入時期は、原則として株主総会決議などにより金額が具体的に確定した日の属する事業年度です。ただし、実際に支払った事業年度で損金経理した場合、その事業年度で損金算入できることもあります。
同じM&Aでも、株式譲渡か事業譲渡かで、役員退職金の使い方は変わります。会社にお金が残るのか、オーナー個人が直接対価を受け取るのかが違うためです。
株式譲渡では、オーナーが保有株式を買い手に譲渡し、会社そのものはそのまま存続します。オーナーが役員を退任するのであれば、会社から役員退職金を支給し、買い手から株式譲渡対価を受け取る設計がしやすいです。
ただし、退職金を支払うことで会社の現預金が減ります。買い手が期待する運転資金や借入返済資金まで減らしてしまうと、交渉がまとまりません。退職金支給後の現預金残高、買掛金、賞与、納税資金、借入返済予定を確認します。
事業譲渡では、事業の対価はオーナー個人ではなく譲渡会社に入ります。オーナーがその会社に残る場合は、退職の事実がないため役員退職金を支給しにくいです。反対に、事業譲渡後に会社を清算する、またはオーナーが本当に退任する場合は、会社に残った資金から退職金を検討する余地があります。
会社分割を使う場合も、どの会社の役員を退任するのか、役員在任年数をどう見るのかが論点になります。形式だけで判断せず、実際の事業承継の流れに沿って確認することが必要です。
親族や後継者に株式を無償で渡すと、受け取った側に贈与税がかかる可能性があります。会社売却の対価や退職金とは性質が違います。
また、会社が自己株式を取得する方法もありますが、配当可能利益の範囲、株主総会決議、みなし配当課税、適正価格の判定などが絡みます。事業承継や株主整理の場面では有効なこともありますが、M&Aの退職金スキームとは分けて検討します。
役員退職金は会社の現預金から支払うため、資金繰りを圧迫する金額は避けるべきです。M&A後に従業員給与、仕入代金、納税、借入返済ができなくなれば、買い手との信頼関係を損ないます。
資金が足りない場合は、退職金額を下げる、支給時期を調整する、買い手側の資金支援を検討する、株式譲渡対価との配分を見直すといった方法があります。売り手の手取りだけでなく、会社が引き続き事業を続けられる条件を満たすことが、結果としてM&A成立に近づきます。
役員退職金は、M&Aでオーナーの手取り、買い手の資金負担、対象会社の税負担に同時に影響する重要論点です。効果だけを見て金額を決めると、過大支給や実質退任の不足で否認されかねません。株式譲渡対価、会社資金、決議手続、退任後の関与を一体で確認し、会社売却を進める前に税務シミュレーションを行うことが大切です。
著者:竹川 満 マネージャー / M&Aアドバイザー
野村證券にて、法人・個人富裕層の資産運用を支援した後、本社企画部署では全支店の営業支援・全国の顧客の運用支援、新商品の導入等に携わる。みつきグループでは、教育機関・介護施設等へのM&Aを含む経営支援に従事
編集:M&A事業承継アドバイザーズ 編集部|運営:みつき税理士法人